昭和40年05月02日 夜の御理解



 教祖の神様の教えて下さることは、どこをどう、頂いてもそれを徹して頂いていこうとする精進。ですから、一つの馬鹿の一つ覚えと言ったような事を申しますが、その事一言だけにでも、焦点においてそれを自分のものにしていく、それを追求してそれを深めていこうとする意欲があれば、それで信心が育つのであり、おかげを頂かれるのであり、お徳を受けられるという事を思うのですね。
 今朝からも、「木の切り株に腰をおろしても、たつ時には礼を言うような心持ちになれと」こう仰る。「木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼をいうような心持ちになれよ」、でも普通お互いが、もう当たり前のような事としておるような中に、神様にお礼を申し上げねばならんと、これは、まあうかつにしておるし、本当に気が付くと本当に一つ使わせて頂いても、ね。
 いわば、その枕一つの上にでも、この合掌ができるお礼が申せ上げれる、電車に乗ってもバスに乗っても、降りる時にはお礼を申し上げる、これが、普通なんですけれども、今朝頂くのは、んー、まあ、木の根っこというかね、気の切り株といえば、まあ邪魔なもの、いらんもの、その邪魔のものと思われるようなことの中にでも、お礼を言う心もちにならなければと言うことであった。
 今日私そこのところにいよいよ焦点を置かせて頂いて、困ったなと、本当にじゃまになるなというような例えば、自分の信心にじゃまになると思うような、事柄の中にでも今日そこに焦点を置いておりましたから、お礼がいえる。まあ、今日1日そういう意味合いに置きまして、木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼をいう心持ちが出来た一日であったように思った。
 その事をただ今お礼を申させて頂きよりましたらね、( ? )というのがありますね、(  ?  )聖徳太子のいうなら、横にあの二人立っているでしょ、( ? )いっているところを頂くんです、いわゆる神は、神、信心のことであろうけれども、例えば今日私そこにいよいよ焦点をおいて、そこに徹底をさせて頂いたということによって、いわば、そのささやかな信心が結い上げられたのである。
 だからこれに徹していけばいいんだということです。そうすると神も伸びるであろう、成長するだろう、その代わり自分の思うように、様々に思う形に結い上げられる所のおかげ、自分の思うようなおかげと、頂くためには自分自身の心が自由自在にどのような邪魔なものと思うような、難儀な事と思うような事に対してでも、お礼が申し上げれるような、立つ時には礼をいうような心持ちにならせて頂くとですね、私はどうかそれだけでも、受けられるのだと言う事を、今日実感させて頂きましたね。
 ですからそのことだけでも、お互いが体得させて頂いて、私の周囲には邪魔なものもなからなければ、困った事がないというところまで、しかも、その事に対してお礼を申しあげれるという所まで、これに徹してお礼を申し上げていくところに、( ? )がだんだん、大きな、様々な紙形に結い上げていけるようになる。信心の心が自由自在にありがたい事に使い、回し使いこなせるような時にです。
 私はどのようなおかげでも頂きこなせる所のおかげと。そいういうおかげを頂ける、限りなく無尽蔵に頂ける、そのお金だったら、そういうような事に徹していく事、それを自分のものにしていく事だと私は思う。ね。それを私共が邪魔なもののように思うて腹を立てたり、それは困ったなあというて悔やんだり、ね、そのような事でいわゆるそのおかげを、そこでストップしてしまうというか。
 それをしてしまう様なそう言う様な神様の働きになるような、いわば心のあり方になっている様な所が沢山あろうとこう思うのです。信心と言うのはだから難しいことじゃない。本当にそこの所を一つ受けさせて頂いて、その事に焦点を置いて、それを広め深めして行くという事によって、おかげを頂けれる道を教祖は自分が体験しそれを、話に残しておって下さっておるのだなあという事を愈々、実感するんですね。
   おかげを頂かねばなりません。